個性、創造、夢、自立

「'98 徳島中学校 講演原稿NG版」


 村上哲史です。30歳を過ぎたおっさんです。なのにみんなからは「てっちゃん」て呼ばれてます。たぶん、普通の大人と比べればボクはまだまだ子供なんでしょうね。それにボク自身、いまだに学生気分が抜けないでいる。ゲームもするし、マンガも読む。「少年ジャンプ」なんか毎週見ています。だから、気だけはみんなといっしょ。ボクを呼ぶ時も「てっちゃん」でいいです。「村上さん」なんて呼ばれたら、お尻(しり)がむずがゆくなりますから・・・。

 それに、そうでなくても今日は緊張(きんちょう)して汗びっしょりです。こんな大勢の前で話しするのは始めてだから・・・。去年の紅白で司会の中居君が「ど緊張」なんて言ってましたが、今日のボクもそんな感じです。心臓もバックンバックン。「体育館は寒いかな」なんて心配していましたが、「こりゃ、暑いわ」って感じです。

 あっ、ここまで一気にしゃべってきたけど、ボクがしゃべっていること、聞き取れますか。一説(いっせつ)によると、ボクの言葉は英語より難しいらしくて、初めての人にはなかなか伝わらないんです。そこで今日はボクが言おうとしている言葉を一字一句全てワープロで打ってきました。できるだけゆっくりと分かりやすく話そうと思っていますが、それでも多分聞き取りにくいと思うので、これを目で追いながら聞いてください。本当はホーキング博士みたいにパソコンと音声合成装置を使ってカッコ良くやりたかったんだけど、ボクの技術不足のためご迷惑(めいわく)をおかけします。ただ、こういう楽しみ方もあります。ボクは必ずしもワープロで打ってきた通りにしゃべるとは限りません。もしもボクが違う事をしゃべって、それが聞き取れた時は、「あっ、あんなこと言よう」と密(ひそ)かに喜んでください。

 さてと、何から話しましょうか。今日のテーマは一応「個性、創造、夢、自立」なんだけど、みんなに話したいことがいっぱいあるし、時間もあんまりないし、ずらずらしゃべって話がまとまんなくなったらごめんなさいね。では、うーんと、まずは僕が何者かという事からから。

 30過ぎの変なおっさんだという事は分かって頂けたと思いますが、毎日何をしているかというと、絵を描いたり、壷を焼いたり、俳句や童話を作ったり、テレビを見たり、昼寝をしたり・・・。別にこれといった仕事は持っていないから、毎日好き放題やってます。まぁ、良く言えば「芸術家」。悪く言えば「ただのプータロー」ってところでしょうか。(詳しくはボクのホームページを見て下さい。アドレスは徳島中学校のホームページの伝言板に書き込んであります)

 ご覧の通り体が不自由なので「ひのみね療護園(りょうごえん)」という施設で生活しています。施設の生活というと、「規則規則で窮屈(きゅうくつ)なところ」というイメージがあると思いますが、さっきも言ったようにボクはやりたい放題やってます。そりゃー、規則だの、人間関係だの、面倒なこともたくさんあるけど、要領(ようりょう)よく振る舞えば何でも出来ちゃいます。例えば、「一人で外出してはいけない」という規則なら、友達を呼び出して遊びに行けばいいだけだし、朝、眠たいなと思えば、眠い目をこすりながらでもとりあえず朝食だけ食べに行って、それからまた寝ればいい。 こうすれば食事も片付くから寮母さんにも怒られない。さすがに何日も続くとまずいけど、普段それなりの生活していたら大丈夫。施設生活を30年もしていたら要領がすべて分かるんですね。

 といってもボクは皆さんに「要領よく振る舞う方法」を教えに来たわけじゃーありませんよ。要は「発想の転換(てんかん)」なんです。障害者だから、施設にいるから、何も出来ないじゃなくて、出来る事はないかって考えるんです。発想を180度変えてみるんです。そしたら今まで見えなかった物が見えてくる。

 例えばこの車イス。車イスに乗っているからどこにも行けないんじゃーなくて、車イスに乗れるからどこへでも行けるんです。メガネだってそうでしょ。視力が悪くてもメガネがあるからよく見える。こう考えると、車イスとメガネって不便(ふべん)を解消(かいしょう)してくれるっていう点に於(お)いては同じなんですね。ということは、ボクのように体が不自由な者も視力がちょっとだけ悪い者もたいして変わんないということじゃーないですか。メガネを掛(か)けている人を見て「かわいそうに」だなんて思わないでしょ。でも車イスの人を見ると「かわいそう」って思ってしまう。なんなんでしょうね、これは。そりゃまぁ不便さの度合いは違うだろうけど、もっと違うのは「先入観(せんにゅうかん)」というやつです。「障害者はかわいそう」っていう先入観を植え付けられてるんですね。「テストでいい点取るやつが頭がいい」というのも先入観。「見たままの絵が綺麗(きれい)な絵」だと思いこむのも先入観。みんなみんな先入観。だから、ちょっと発想の転換をしてやって、この先入観とか常識とかいう思い込みを除いてやれば、視野(しや)が凄(すご)く広くなる。そして、この「発想の転換」や先入観を取り除くトレーニングをするのが「美術」だと思うんです。

 美術の先生の中には「見たとおりに描きなさい」という人もいるようですが、これはたぶん間違ってるんじゃないかって思うことがあります。それを言うなら「感じたまま思ったまま描きなさい」でいいんじゃないかって。空を赤で塗(ぬ)ろうが顔を歪(ゆが)めて描こうが別にいいんです。こうしなければならないって事は美術にはないんですから。いろんな事を試してみればいいんです。それが「発想の転換」のトレーニングになり、想像力と創造力を養(やしな)い、個性豊かな人間を作る。これが学校で「美術」をする意味じゃないかって思うんです。

 以前はそうじゃなかったんですよ、ボクも。出来るだけ綺麗な絵を描いてみんなに認めてもらおうと思っていました。生活の面でも「いつかは仕事を持ってそれなりの収入を得て一人でも暮らしていけるようになりたい。それが自立というものだ」と思っていました。でも、いろんな絵を見たり描いたりしているうちに「こうしなければいけないってことは何もないんだ、自由でいいんだ」って分かってきたんです。「自由」といっても好き勝手することじゃーありませんよ。キャンバスの中の色と形のバランスを考えながらの自由、社会の中の人や秩序のバランスを考えながらの自由です。そしてこのバランス感覚を養ってくれるのも「美術」なんです。

 最近はどうもいろんな事件が起きすぎている。中学生から大臣、官僚(かんりょう)に至るまで、想像力とバランス感覚が欠如(けつじょ)しているとしか思えないようなことばかりです。人を刺(さ)したり汚職(おしょく)をしたりする前に、どうしてその後どうなるかという単純な想像力が働かないのか不思議です。多分その人達は、勉強勉強で一つの価値観(かちかん)しか教えられなくて、美術や音楽はどうでも良かったんでしょうね。今朝、ボクの絵はがきをもらったと思いますが、それにも書いてあるとおりマークシートによって答えが画一化(かくいつか)したテストでいい点を取った者だけがエリートとして認められる時代。なんかおかしな時代です。けれど、そういう時代だからこそ「美術」とか「音楽」とかの情操(じょうそう)教育が大切なんです。

 といっても数学や社会がいらないってわけじゃーない。「方程式なんて大人になって何に使うん?」って言う人がいるけど、ボクは「数学を勉強することは物事を論理(ろんり)的に考えるトレーニング」だと思うし、「理科や社会は情報を分析(ぶんせき)し未来を予測するトレーニング」だと思っている。だから年号を丸暗記するなんて愚(ぐ)の骨頂(こっちょう)。どうしてその事件が起こったのか、その結果どうなったのかを学ばなければ意味がないんです。数学だって、答えが合っていることよりもどういう課程で答えを導き出すかという方が大事なように思うんです。もしボクが塾の先生か何かをしていたら、そういうことを教えたかった。数学も理科も英語も音楽も美術も体育もそれぞれ意味があって勉強してるんだって事をです。だから「美術なんか」なんて言わずに、自分の思うように楽しみながら絵を描いてみて下さい。きっと自分の知らなかった自分が見えてくると思いますから。

 話が大幅にそれてしまいましたね。個性とか夢だとかの話をするつもりでしたのに、こんなになってしまって。時間も半分以上過ぎてしまったけど、これから本題に入りますね。

 突然ですけど長野オリンピック見ました?ボクはその時結構(けっこう)忙しかったんだけど、出来るだけ見るようにしてました。どの選手も実に個性的で、その笑顔や涙を見る度に泣かされていました。彼らの思いや努力や苦悩(くのう)の後が全て伝わってくるからです。この2週間でどれだけ多くの人が感動し、勇気と希望をもらったことか。ボクの下手な講演なんかより何十倍もいい勉強だったと思います。中でもジャンプ団体。これは凄かった。可能性の岡部、安定性の斉藤、出入りの激しい原田、綺麗なジャンプの舟木、4人が4人ともその個性を遺憾(いかん)なく発揮し、彼らにしか出来ないジャンプを見せてくれたことは、たぶん一生忘れられないと思います。なぜかと言えば、ボクは日頃から「どんな人にもその人にしか出来ないことがある」と思っているからです。これは体が不自由だろうが学校の勉強が出来なかろうが、全ての人に当てはまる普遍的(ふへんてき)な真理(ちょっと難しかったかな?)だと確信しています。人はそれぞれ個性を持っています。その個性を最大限に活かしたその人にしか出来ないことがあるはずなんです。要はそれを見つけられるかどうかです。

 いい例が女子スピードスケートの岡崎です。彼女は子供の頃から太股(ふともも)が凄く太かったそうです。女の子にとってあまり嬉(うれ)しいことではないですよね。でもそのおかげで銅メダルに輝(かがや)くことが出来た。もちろん彼女の努力が最大の要因(よういん)であることは間違いないのだけれど、「太股が太い」という彼女の個性がメダルに導いたと行っても過言(かごん)でないと思います。

 ボクの場合は「体が不自由」って事が個性であり、僕の特長だと思っています。もし手も足も不自由でなければあんな絵は描けなかっただろうし、ここでこんな話をすることもなかったはずです。体が不自由であったからこそ、普通では経験できないいろんな事を体験できたし、そのおかげでボク独自の絵、ボク独自の俳句、ボク独自の文章を作ることが出来る。しかも時間はたっぷりあるから思う存分やりたいことが出来るわけです。創作活動をする者にとってこれほどありがたい資質(ししつ)と環境(かんきょう)はありません。これもみんな「体が不自由」という個性があるからなんです。そしてこの個性を活(い)かし、もっともっと自分の世界を拡(ひろ)げていきたい。体の不自由なボクにしか出来ないこと、例えば今日のような講演(こうえん)をするとか、絵とかエッセイとかを書くこと。そして、障害を持つ者とそうでない者がふれあえる機会をもっともっと作って、少しでもお互いを理解し合えるようにしたい。これがボクの今のところの夢であり、目標なんです。

 みんなの夢は何ですか。もし、まだ自分の夢が分からないという人は、この機会に、自分は何がやりたいのか、自分の個性は何なのか、いろんな角度から考えてみて下さい。「夢、夢と何寝ぼけたこと言よんな」と言われるかもしれんけど、夢は必ず自分にエネルギーをくれます。毎日の生活に張りを与えてくれます。「夢や見たって叶(かな)えへんわ」なんて言わずに、どうしたら叶えられるのか頭を柔(やわ)らかくして考えてみて下さい。そしてとにかく実行に移してみること、挑戦してみることです。挑戦なくして夢が叶うことはあり得ないのですから。

 もうそろそろ時間が来てしまったようです。なんやかんやとまとまりのないことをいっぱい言い過ぎて頭の中がぐじゃぐじゃになっているかも知れませんが、最後にあと一つだけ言わせて下さい。

 何が言いたいかというと、食べ物についてです。といっても、これから栄養学の講義をしようって訳ではありませんよ。そんなこと出来る訳ないんだから。ただ砂糖(さとう)の取りすぎには十分気を付けて欲しいんです。砂糖の取りすぎは虫歯や糖尿(とうにょう)病の元になるだけでなく、体力・持久(じきゅう)力を低下させ、集中力も維持(いじ)できなくなるといいます。これから受験を迎(むか)えるみんなにとって集中力がなくなったら困るよね。だから砂糖にはほんと気を付けて下さい。もっと具体的(ぐたいてき)に言うと砂糖の1日の摂取量(せっしゅりょう)は30g程度が望(のぞ)ましいそうです。これはだいたい缶ジュース1本分。これと一緒にお菓子を食べたりするとそれだけで取りすぎということになってしまいます。そんなに神経質になることはないんだけど、知って食べるのと知らずに食べるのとでは、だいぶ違うはずだから、ぜひ覚えておいて下さい。

 今、アメリカでは、太った人は管理職(かんりしょく)になれないそうです。太っていると言うことは食生活が管理できていないと見なされ、自分の管理が出来ない奴(やつ)に部下の管理は出来ないと見なされるからです。要するに完全に自立した一人の大人として認めてもらえないわけです。最近、「食育(しょくいく)」だとか「選食(せんしょく)」だとかいう新しい言葉が脚光(きゃっこう)を浴び始めています。ボクらも食べることについてもっともっと知識を拡げていかなければいけないように思うのですがどうでしょうか。

 「発想の転換」から始まって、「個性」、「夢」それに「食育」など、難しいことをいっぱい話してしまいました。ボクの話し方もへたくそだし、何がなんだか分からなかったと思います。でも、そんなときのためにこのプリントがあるんです。ぜひ帰ってから2回3回と読み返してみて下さい。お願いします。

 長い間聞いてくれてほんとありがとうございました。


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