究極の玉子かけごはん


 早いものだ。僕が療護棟に降りてきて三年が過ぎた。自分でも信じられないぐらいだが、この十月一日で確かに三年なのである。ほんと月日が経つのは早いものだとつくづく感じる。

 ちょっと待て!ということは、毎朝玉子かけごはんを食べ続けて三年になるということか。パン食である土曜日を除いて毎日、よくもまぁ飽きずに食べたもんだと改めて関心する。日記にしても、ジョギングにしても、三日と続かない僕が三年間飽きずに続けているというのは、真めずらしいことなのだ。

 別に、玉子かけごはんが好きで好きでたまらないというのではない。療護園では毎朝の献立の他に、牛乳、生玉子、茹玉子のうちどれかを選択できるようになっている(といっても毎日変えられるわけではない。数か月に一回希望を訊きにきて、その後の数か月は同じものが続くというシステムだ)わけだが、僕としては、味噌汁を飲んで牛乳を飲もうとは思わないし、茹玉子は剥いてもらうのが面倒だ。対して、玉子かけごはんで食べた場合、献立に付いている味付け海苔やふりかけを昼や晩のためにストックしておくことができる。これがなかなか便利なもので、玉子かけごはんをやめられない一番の要因になっている、と勝手な自己分析をする。(その他、ねぼうした場合さっと腹の中に流し込めるという利点もある。胃には余り良くないと思うが、先生にぐたぐた言われないためにはこれしかない)

 それにしても、よく三年間も飽きずに……と思うかも知れない。いや内心あきれてしまって何も言えない人が大多数であろう。ごもっともだ。僕だって自分のことでなければ笑ってしまう。でも飽きない理由がちゃんとここにあるのだ。

 その前に、人は何故飽きるのか考えてほしい。哲学的で何やら難しそうな命題だが、答えは簡単、変化がないからである。ということは、逆の裏も真なりで、変化があれば飽きないのである(『逆』じゃの『裏』じゃのいうのは、数字の用語の一つで、この命題の場合『逆』は「変化がなければ飽きる」であり、『裏』は「飽きないのは、変化があるから」である。実にややこしい。頭が混乱するので村上哲史数学講座はお開きにする)。 ひのみねの玉子かけごはんには、この飽きないだけの変化が十分にあった。まず、ごはんの炊き具合がものの見事に毎日違う。美味しく炊けている場合が大半(美味しいといっても、それにだって幅がある。やや堅めかなと思う美味しさもあれば、ちょっと軟らかいかなと思う美味しさもある。人それぞれ美味しいと思う許容範囲を持っているはずだ)なのだが、外米みたいにパサパサのときもあれば、お粥のようにビチャベチャの場合もある。一合や二合炊くのなら、微妙な水や火の加減が難しいかも知れないが、大きな釜でいっぺんに炊くのに何故これほどまでに違うのか理解に苦しでしまう。それでもそれしかないのだから我慢して食べるしかない。そんなときでも玉子かけごはんにすると、それなりに美味しいと思えるのは不思議だ。

 二つめは、醤油のかけ具合。これも職員によって、日によって全く違う。その最大格差は三倍〜四倍。衆議院選の一票の格差とほぼ同じぐらいだ。それでもまだ、少ないのはなんとかなる。でも、ごはんが黒くなるほど掛かっているときは、もう辛くて辛くて。「これじゃー、憲法違反じゃ!」と叫びたいところだが、元はと言えば、自分が早起きして玉子を掛けてくれる職員に醤油の量を指示しないのが悪いのだから文句は言えない。 三つめは、玉子とごはんの混ぜ具合。混ぜずに黄身と白身とごはんを適当にすくって食べるのコツだ。ごはんと黄身だけとか、醤油がちょっとかかった所のごはんに白身をからめるとか、工夫しだいで何十通りの味が楽しめてしまう。それにこうして食べると、ごはんが美味しいし、黄身の風味も口の中で鮮明に残る。また醤油の量が普通(人によって普通も違うと思うが、僕は小サジ一杯から一杯半ぐらいが丁度良いと思う)の半分ぐらいでいいから体にもいい。さらに、白身を三分の二ほど捨ててやると、黄身の味がいっそう重厚になる。全くいいとこだらけだ。

 この玉子を混ぜないという発見は、世の発見物の殆どがそうであるように、これもまた偶然の産物であった。こう言えばいかにもカッコイイ。いったいどんなエピソ−ドがあったのだろうと思うだろう。そう思わせるのが僕のねらいで、本当は、混ぜるのが面倒臭くなって、おもいきってそのまま口に入れたら旨かったというのが真相である。だが唐突に思い付いた訳ではない。それまでだってカレ−は混ぜずに食べていた。ル−だけとか、肉だけとか、その組合せによっていろんな味が楽しめるからだ。それにル−を混ぜてしまわないから、ごはんがシャキッとして美味しい。「ならば、玉子かけごはんでも美味しいのではないか」と思ったのがもともとの始まりなのだ。

 しかし、これで「究極」というのは少しおこがましい。「究極」というからには材料の厳選から調理法まで全てにわたって細かい心配りが必要だ。まず、材料であるが、お米は新潟産ササニシキ。もちろん農薬を使わない有機栽培のものであり、玉子も、放し飼いをして自然の餌で育てられた鳥の初卵。と言いたいところだが、こんなもの手に入るわけがないから諦めよう。次に調理法。ごはんは、やや固めがいい。そして湯で温めたどんぶり茶碗に炊きたてのごはんを三分の二程度つぎ、白身を半分ほど除けておいた玉子をのせ、すばやく蓋をする。そして一、二分蒸らす。そうすると玉子のタンパク質が化学変化を起し、何とかラ−ゼという旨味成分が発生するのである。半塾が一番美味しいのはこの旨味成分のおかげなのだ。そして黄身の上に白い膜が出来始めたところで黄身を潰し、醤油をたらたらーと掛けて混ぜずにそのまま掻き込む。これが村上流究極の玉子かけごはんである。

 この究極の玉子かけごはん、実を言うとまだ一度も食したことがない。頭の中で想像しているだけだ。しかしだからこそ、その味は変化に富み、旨さも倍増するのだ。

 よく「施設の生活は変化がない」と言われる。確かに波瀾万丈ではないかもしれないが、決して変化がないわけではない。玉子かけごはん一つをとってみてもこれだけバリエ−ションがあるのだから。それでも変化が欲しければ自分で作ればいい。どんなに規則でがんじがらめであろうとも、その中で変化は見つけられるし、温めるとタンパク質が化学変化を起こすように規則自体を変化させることだって可能である。限られた環境の中で変化を見つけだすのも作り出すのも自分たちである。玉子かけごはんはその可能性を教えてくれる食べ物なのだ。

 だいぶ腹が減ってきた。夜の作業室で一人ワープロを打っているとたまらなく腹が減る。でも食べるものは何もない。朝まで待つしかないのだ。あぁ、明日の玉子かけごはんはどんな味だろうか。


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