村上哲史プロフィール

似顔絵
1965年                徳島市の繁華街に大衆食堂「いろは」の次男として生まれる。
このときすでに脳性小児麻痺であった。
1967年 ひのみね学園に通園し始める。
お店は忙しかったが、祖父が「哲史は一を聞いて十を知る奴だからちゃんとし てやれ」とバス賃をくれて通わしてくれたらしい。以後3年間通い続けた。この 頃の思い出を童話にしたのが「てっちゃんの通園記」である。
1970年 ひのみね学園に1年間母子入園をする。
1972年 ひのみね学園に入園。同時に北小松島小学校ひのみね分校に入学する。
(同校は、3年後、徳島県立養護学校ひのみね分校となり、さらに10年後、 徳島県立ひのみね養護学校となった)
1978年 中学部に進学し、美術部に入部。初めて油絵を描いた。
1981年 城南高校への進学を目指すが途中で断念し、徳島県立養護学校高等部ひのみね 分教室に進学する。
ひのみね新聞の編集をするようになる。以後10年間携わるが、結果としてこ れが文章の修行となっていた。
1982年 一時は大学を目指すが半年で諦め、庭式野球チーム「カレージャス」を結成。 真っ黒に日焼けして、1日中野球か野球ゲームをしまくっていた。
このころ家族は徳島の店を売り、小松島に引っ越してくる。以後転々と借り家 住まいとなる。
1984年 高等部を卒業。
結局進学も就職も出来ず、園内でぶらぶらしながら関政明氏の下で油絵を描く 時間が多くなる。
1985年 「公園の午後」博美展入選。
出品しようかしまいかだいぶ迷ったけど、思い切って出してみて良かった。
1986年 「あさがお」県展入選。
学生時代何度か見に行って「凄いなぁ」と思っていた所だけに、自分の作品が 並んでいるのがなんとも嬉しかった。
1987年 調子に乗って賞狙いで県展に出品するが見事に落選。それならばと中央の公募 展に出品するが、これも落選。以後3年間落選し続ける。
1988年 陶芸を始める。
初めは形にも何にもならなかったが、最近やっとまあまあ思い通りの形が出来 るようになった。
1989年 「カレージャス」を解散。この頃よりお腹が出始める。
1990年 心機一転、赤を基調に大きなタッチで岬、海、波、岩などを描き始める。
10月、ひのみね療護園に移籍。同時に文芸部に入部し俳句も始める。
あまりいろんな事をすると全てが中途半端になりそうで恐い気もするが、何で もやってみたがりの性分なので仕方がない。
「岬への道」県展入選。
1991年 ボランティアを伴いアメリカツアーに参加する。
「椿咲く頃」県展入選。
「夏の朝」「西風」障害者自立読売絵画展入選。
1992年 全国俳誌「麦」に投句し始める。
2回目の投句ででいきなり巻頭に選ばれいい気になるが、次の号では最下位で あった。
1993年 ヨンデンプラザで平野氏と二人展を開催。
多数の方に見てもらい、その反応にじかに触れて、創作意欲を新たにする。
童話「ぼくとパパのサイクロン号」が、わたぼうし文学賞佳作賞受賞。
「六月の岬」上野の森美術館”日本の自然を描く展”入選。
身体障害者スボーツ大会の出場。スラローム2で金メダルを獲得。
予選で日本新記録をマークするが、本大会では0.3秒及ばなかった。
1994年 第1回バジャー展出品。
バジャーの仲間に入れたことによって、いろんな分野の様々な人たちと出会え 、交際範囲、行動範囲ともに格段に広がり、これ以降、自分の世界は大きく広が り続けている。以後、バジャー展には毎回出品する。
徳島メガネ石井店で東出氏と二人展を開催。
喫茶「やまなみコーヒー店」で、関氏・平野氏とともに三人展を開催。
全国俳誌「麦」の同人に推挙される。
これでまた俳句がやめられなくなった。
日本障害者芸術文化協会の会員となる。
「朝の大浜海岸」県展入選。
1995年 ルネッサンス・リゾート・ナルトで絵の展示販売を試みるが全く売れなかった 。
恰美術館で、関氏・平野氏とともに三人展を開催。
「春暁」放美展入選。
著作権、特許などに興味を持ち著作権登録指導員となる。
また、知的所有権管理士試験に合格し、ひのみね療護園内で著作権登録相談所 を開業する。
第1回エナジー展出品。同展のポスターを描かさせてもらう。
「採石場T」県展入選。
家族の念願の家ができる。もちろん車椅子でも上がれるようにしてあるし、僕 の部屋もできた。
1996年 イタリア料理店「ボッタ」で、初めての個展を開催する。
俳句に合わせて抽象画を描くようになる。
俳句と抽象画が合体した油絵なんて、たぶん他にはないだろう。
ヨンデンプラザで、関氏・平野氏とともに三人展を開催。
徳島メガネ石井店で2回目の個展を開催する。
ラストバジャー展でF10号を24枚貼り合わせた「凶悪な事件が多発熱帯魚」を 発表する。
ついに念願のパソコンが買えた。
1997年 webページを発進する。
県の建設業協会から療護園にパソコンが寄贈され、「出来るだけ早くwebページを公開して欲しい」 と言うので、未完成だったがとりあえず発信した。
日英赤十字社の「障害者・ボランティア交流事業に参加。10日間の日程でロンドン・オックスフォードを回ってきた。
この10日間で友達も増え、人脈も大きく広がった。
エナジー'97で「原爆忌マークシートを塗り潰す」が エナジー大賞を受賞。
小松島市民文芸に随筆「遺書」を発表。
カラープリンターを使ってオリジナルTシャツを作ってみる。
パソコンにもだいぶ馴れてきて、いろんな事が出来るようになった。 次はオリジナルカレンダーを作りたいし、「tetu通信」の発行、エッセイ集や童話集も自分で編集したいなぁ。
1998年 2台目のパソコンを購入。
 ひのみね療護園の自分のデスクに設置し、公私にわたり活用する。
心身障害者施設「草の実学園」の職員研修に招かれる。 翌月、「徳島中学校」にも招かれ熱弁を振るう。
 草の実学園では「自立とは」をテーマに、徳島中学では「自分という人間の紹介を中心に 約2時間、結構リラックスして話すことが出来た。 言葉が聞き取りにくいにも関わらず、みんなが真剣に聞いてくれていたのがとてもうれしかった。
「エナジー’98」のポスターを作成。
 それまでのイメージ画だけでなく、ポスターのデザインそのものを担当。 これもパソコンのおかげだ。
ひのみね療護園の一室で「おふぃすtetu」を開業。
 とはいっても正式な手続きはしていない。県立の建物の中では正式に事務所を開くことは出来ないと思うので、 とりあえずは届け出なしの非公式なものです。
 ちなみに第1号の仕事は、ひのみね療育園から委託された<地域療育等支援事業の機関誌【サラダノート】の編集>でした。
1999年 「障害者生活支援センターひのみね」のパンフレットを作成する。
エナジー展の新しいシンボルとして【エナジーJr.】をデザインする。
 この年の【エナジー’99】は、ボランティアだけで運営し、無事成功。 翌年につなげることが出来ました。
2000年 ボランティアに対する「やめてください7箇条」を発表。
 サラダノート第5号の「ボランティアを考える」の中で軽い気持ちで書いた7箇条が思いも寄らない反響を呼び驚いた。
徳島東工業高校から「回転するイーゼル」をプレゼントされる。
 実習の教材として作っていただいたものを譲り受ける。 これによってより大きな作品が手軽に描けるようになった。重宝している。
ひのみね療護園第4代自治会長に任命される。
 まず最初に「自治会規約」を改正。体系的に曖昧だった部分を明文化し、 それぞれの役割分担をはっきりさせた。
生活支援センター「ひのみね」が主催するパソコン教室の講師を引き受ける。
 約10ヶ月の講習でどれだけのことが出来たのか分からないが、 聞き取りにくいボクの言葉を一生懸命聞いてくれて、 みんなが少しずつ着実に上達していく様が大変嬉しかった。
「てつのページ」をいったん閉じる。
2001年 「ひのみね療護園 自治会憲章」を創案する。
 ひのみね療護園利用者の権利と義務を謳ったもの。4月の定例自治会で承認されました。
超カラフルな車椅子を制作。
 と言えばものすごく格好良く聞こえるが、実は普通の車椅子にアクリル絵の具で色を塗っただけ。 こういうことをしていると絵描きの血が騒ぐ。なぜもっと早く気が付かなかったのだろう。
ひのみね療護園自治会ホームページをリニューアルする。
 と同時に「てつのページ」も再オープン。 それほど大きく変更させることは出来なかった。
エナジー2001で「濤蘭」が エナジー大賞を受賞。 二度目
 構想がまとまらず90年代前半に描いていた海の絵を久しぶりに描いてみた。自分ではイマイチの出来だと思うし、エナジーのスタッフの一人でもあるのに、こんな賞をもらってもいいのかと恐縮してしまった。
写真家の幸田青磁さんとともにweb上に「ギャラリー拝見」と「アトリエ探訪」を連載開始する。
 これを始めたおかげで今まで知らなかった作家に出会えたり、作家の制作場面を直に見れてとても楽しいし、行く先々でいろんな人に出会えて交友関係が一段と広がりつつある。
 メールアドレス tetu@hinomine.com

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