まちがい電話

「ひのみねかわらばん」より



 もう、あれから四年が経つ。
「てっちゃ−ん、電話−っ!」
 作業室で絵を描いていると、真理ちゃん(看護婦)が走ってきた。
「てっちゃん電話。私にまちごうてかかってきてなぁ−、なんか急いどうようだったわよ、早よう早よう」
−またか。
 同じ施設内に村上姓が四人もいると、こういうことはよく起こる。「村上てっちゃんお願いします」といってかかってくれば間違いないのだが、「村上さん」あるいは「村上先生お願いします」などとかかってくると、二転三転してしまう。これは僕の推理であるが、「村上さんお願いします」の電話に、まず村上N美(入園者 当時まだ小学生)が呼び出される。おかしいと気付いた相手が「あの−、村上先生に代わってくれないかなぁー」というと、N美は、真理ちゃんだと思い真理ちゃんを呼ぶ。すると今度は「あの−、村上哲史さんおられますでしょうか」ということになって、ようやく僕に継がるという具合だ。三人ともこういうことを何回となく経験しているので、慌てたりすることはない。ただ、電話の相手が急いでいるらしいので、とにかく急いで受話器を持った。
「もしもし………」
 すると、よほど慌てているのだろう、ダムの水を放流するかのように、怒涛の如く難解な言葉が襲いかかってきた。
「あ、てっちゃん、子供が熱だしてなぁ………」
−えーっ!子供ってかぁ!また間違いか−。けど確かにてっちゃんて言うたな−。え−っ、ほなわしの子か?わし、子供や作った覚えないぞ−。
 全く予想もしないふい討ちである。とにかく何が何やら分からなくなってしまった。
「あの−、どちら様でしょうか」
 しかし、言語障害のある僕の言葉は、ただでさえ分かりずらいのに、少し興奮ぎみのうえ受話器を通しての会話だからなおさら分かりにくい。自分では落ち着いてゆっくり言ったつもりだが、相手には通じない。
「早よう、てっちゃんに代わってよ!」
−やっぱり「てっちゃん」やなぁ……。
「あの−、てっちゃんは、僕ですけど……」
「てっちゃん出してって言よんのに!」
 受話器の声がだんだんヒステリックになる。なんだか自分が悪いことでもしているような気分になってきた。百パ−セントありえないことなのに、本当に僕の子がいるのかなぁなんて思う。知らないうちに精子を抜かれ、知らない女の人との間に、体外受精によってできた子とか、未来あるいは異世界からかかってきた電話であるとか。そんなSFのようなことを本気で考えた。親類の赤ちゃんが熱を出して、なにがなにやら分からんうちに僕の所にかかってきた、というやや現実的なことも考えたが、それだって、どう考えても不自然だ。やはりまちがい電話なのだろうか。
「早よう、村上てっちゃん出してって言よんが分からんのえ!」
 もう悲痛な叫びだ。でも確かに「村上てっちゃん」と言っている。僕しかいない。これは夢なのか。顔をたたく。痛て!夢ではない。だとしたら残る可能性としてはただ一つ。村上てっちゃんがもう一人いるとでもいうのか?
「あのー、どちらの村上てっちゃんでしょうか?」
 自分でも変なこと言っているなと思った。けれど、僕ではない僕がいるとしか考えられなかったのである。
−え−と、え−と、N美でもないし、T原てっちゃんにしてもおかしいし、M理ちゃんでもないし、他に村上てっちゃんといえば………、え−と、村上、村上…………?!いた−っ!せっこちゃん(寮母さん 村上世○子という)のだんなだーっ!(村上哲○という。なぜ知っていたかというと、せっこちゃんが結婚したとき、ある父兄から「てっちゃん結婚したんやってなぁ、おめでとう」と言われたことがあったからだ)だけど、なぜ、せっこちゃんのだんなにかかってくるんだろう。いやちょっと待て、これはせっこちゃん本人への電話だ。せっこちゃんのことを「せっちゃん」と呼んでもおかしくはない。そうだ絶対せっこちゃんだ。
 そうと分かれば今まで「てっちゃん」としか聞こえなかったものが「せっちゃん」に聞こえてくる。ホッとひと安心したものの電話のむこうはまだあせりまくっていた。
「ほなけんな、村上せっちゃんよ。あんたでは話にならんわ。誰かに代わって!」
−そんなこと言われても、誰もおらんのに……。おったらもっと早ように代わっとうわ、くそ−っ。けど、とにかく早ようせっこちゃんに回さねば……。
「せ−んせ−!」
 とにかくここは大声を出すしかない。自分で回せば手がふるえて違う所を押してしまう可能性があるからだ。そこへ運良くS先生がもどってきた。
「先生先生、せっこちゃんに電話やけん回して」
 こうして、やっと継がるべき人に継った。それにしてもこれほどあせった電話はない。この世に存在しないはずの自分の子供が熱を出して苦しんでいるというのである。頭の中はほとんどパニック状態になり、あせりまくっていた。けれど僕以上にあせっていたのは、せっこちゃんのお母さん?(その後も何度か声を聞いた。たぶんお母さんと思う)だったのではないだろうか。孫が熱を出して、早く娘に帰ってもらいたくて電話しているのに、まったく知らない人が二人も出てきて、しかもそのうちの一人は何を言っているのか分からないんだから。その間二〜三分ぐらいだったと思うが、よくもまぁ切らずに話し続けたものだと思う。今起ったことをS先生に話しながら、せっこちゃんのお母さんの辛抱強さに改めて関心していた。
 それから数分後、また絵を描きに作業室へ向かっていると、せっこちゃんが顔をひきつらせながら風のように追い抜いていった。
「早よう早よう……」
 僕のかけた言葉も、たぶん聞こえていないだろう。


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