『遺書』


 「ふぅーっ、今日も無事帰ってこられた」

 外出から戻り、療護園の建物の中に入ると、いつもホッと一息つく。と同時にドッと疲れが出る瞬間でもある。体力が衰えてきているせいもあるが、精神的な疲れの方がかなりのウエイトを占めてるように思う。車が来た時の対処法とか、あらゆる場合を想定しながらの車椅子の運転は、一瞬足りとも気を緩めることが出来ないからだ。

 危ない目に遭ったことも何度かある。トラックがすぐ横を走り抜けていったり、視界の外から突然バスが現れたり…。実際、路上を車椅子で、しかも僕みたいにバックで進んでいくことは、普通に考えれば無謀であるに違いない。でも、僕には車椅子のバック走行のテクニックでは誰にも負けないという自負がある。今までの外出経験に基づいた自信もある。

 それでも、やはり一人で外出するのは恐い。いくら細心の注意を払っても何が起こるか分からない。もしもの事が絶対にないとは誰も言い切れないのだ。こんな時のために、僕は後ろの鞄にいつも遺書を忍ばせている。

 遺書といってもボクには財産なんて無いし、死んだ後の体のことなんかどうでもいい。臓器移植に使ってもらっても構わないし、いならくなったら海に放り込んでもらってもいっこうに構わない。だが、一つだけ気になることがある。それはボクが何かの事故に遭って死んでしまった場合、その責任がどこに向けられるかということである。ボクの遺書には、この責任問題についてのボクの言い分を簡単にまとめてある。

『遺書 もし、ボクが外出、単独外出、あるいは無断外出をしているときに何らかの事故に遭遇した場合、その責任は全て自分を含む事故の当事者にあり、療護園およびその職員には一切の責任がないことを明言する』

 別に療護園のためにこれを持っているわけではない。それに特別なことを書いたつもりもない。「事故は、殆どの場合当事者の注意不足」これはたぶん世間の常識と言っていいと思う。そんな当たり前のことをなぜ遺書として持っているのかと言えば、それはボクの人間としてのプライドを守るためなのである。

 実際ボクが事故に遭った場合、その後どうなるかシュミレートしてみよう。まず真っ先に騒ぎ出すのがマスコミだろう。マスコミはここぞとばかりに施設の管理責任がどうのこうのとか、道が悪いとか社会が悪いだとか書き立てるに違いない。そしてボク自身の注意不足なんてことはそれほど言及されず、結局、園長以下何人かの職員が責任を取らされるのである。

 これらがいったい何を意味するのか。ようするに、ボクを含めて障害者は社会的に一人前の大人として見てもらえていないのである。人々の意識の中の障害者は、いまだに守ってやらなくてはならない弱者であり、いつまでたっても子供以上にはなれないでいるらしい。

 施設の中では特にその傾向が強い。「子供じゃあるまいし」と思うような規則はその象徴である。けれど、こうした規則がなければやっていけないのもまた事実。当たり前だが施設の利用者だっていろんな人間がいる。性格だって様々だ。そして悲しいことにその大半は精神的自立が出来ていない。施設側は、そんなボクらを一つの枠に収めてそそうのないように守っていかなければならない。しかも社会からはいつも監視の目が光っていて、少しでもミスをすると、すぐにマスコミに叩かれる。施設側だって大変なのだ。

 だから、施設相手にいくら「もっと自由を」なんて叫んでみても仕方がない。自由が欲しければ、そうした社会全体の意識を変えていくしかないのである。そしてその為には、障害者自身が自己をきちんと把握し、責任が取れる一人前の大人と見てもらえるように努力しなければいけない。障害者の中には自由を美化して考えている人が多いようだが、哲学者サルトルの言葉を借りると「自由とは、責任を持つことであり、その責任に束縛されることである」。このことに気付かなくてはならない。

 とはいうものの、ボクだってまだまだ半人前である。けれど、ボクから見て自分より半人前の大人だってたくさんいる。そういう奴がちゃんとした大人扱いされて、自分が子供扱いされるというのはどうにもしゃくにさわるのだ。

 あっ、いかん。こんな所で御託を並べている場合ではない。外出願いの帰園時間より十五分もオーバーしてしまった。急がないとまた叱られる。それに腹も減ってきた。ってことは生きてる証拠か。よし走るぞ。

「せーんせー、ただいまー。ご飯残っとうでぇー」

 遅刻の常習犯ということもあり、寮母さんも半分諦めているらしく本気で怒ったりしない。が、何か言わないと物足りないようで、一言「もう」と言ってお膳を運んできてくれた。ご飯はすっかり冷えてしまっている。でも美味しい。あぁ、生きててよかった。

 食堂のテレビからは、ちょうど六時のニュースのテーマ曲が流れてきた。


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